2026年ワールドカップで大活躍中の中村敬斗選手。
グループステージのオランダ戦では後半に劇的な同点ゴール、続くチュニジア戦では日本代表のW杯最速ゴールをアシストと、まさに大会の主役の一人になっています。
スピードと得点力はもちろん魅力ですが、これまでの道のりを知ると「苦労人」と呼ばれる理由にもグッと納得できます。
ガンバ大阪時代はなかなか出番に恵まれず、その後も欧州でクラブを何度も変えながら結果を求め続けてきました。
そして8歳のときに父と訪れたブラジルでの体験が、海外志向や唯一無二のドリブルスタイルの原点になったと言われています。
今回は、中村選手が苦労人と呼ばれる理由や、幼少期のブラジル行きのエピソード、そして日本代表の主力に成長するまでの道のりをまとめて紹介します。
中村敬斗の活躍が話題!【W杯2026】
2026年ワールドカップでは、中村敬斗選手が日本代表の攻撃のキーマンとして大活躍でした。
グループステージ初戦のオランダ戦では、0-1で追いかける後半12分、相手に体を寄せられながらも力強いシュートを叩き込み同点ゴール。
何度もガッツポーズを繰り返し、雄叫びを上げるシーンはこの大会を象徴する一場面になりました。
続くチュニジア戦でも先発し、前半わずか4分に鎌田大地の先制点をアシスト。
これは日本代表のW杯における最速ゴールという記録になり、チームは4-0で大会初勝利を飾っています。
持ち前のスピードと、相手の足の間を通すような独特のシュート・ドリブルセンスで、大舞台でもしっかり存在感を発揮しているのが頼もしいところです。
今の活躍だけを見ると、最初から順調にキャリアを歩んできたように見えるかもしれません。
しかし、実はそうではないのです。
中村選手が苦労人と呼ばれる理由はどこのあるのか、ご紹介していきます。
中村敬斗は苦労人と言われるのはなぜ?
中村選手は、今では日本代表の攻撃を担うトップ選手ですが、ここまでの道のりは決して平坦ではありませんでした。
出場機会に恵まれない時期や、海外での厳しい競争、SNSでの批判まで、いくつもの壁を乗り越えてきています。
その壁を乗り越える期間も長かったことから苦労人と言われています。
苦労人と言われる具体的なエピソードを一つずつ振り返ってみましょう。
ガンバ大阪で思うように出場機会を得られなかった
中村選手が苦労人と言われる理由のひとつが、プロ入り直後の出場機会の少なさです。
高校2年生のときにいわゆる飛び級でガンバ大阪入りが決まった中村選手。
2018年にトップチームへ加入しましたが、この年のJ1リーグでの出場はわずか6試合、得点はゼロという結果でした。
U-17日本代表でも注目されていた逸材とはいえ、トップチームの中で確かな出場機会をつかむのは簡単なことではなかったようです。
それでも中村選手はそこにとどまりませんでした。
2019年7月、FCトゥウェンテへ期限付きで移籍を決意します。
国内で出番を待つのではなく、自ら環境を変えて勝負に出た象徴的な一歩でした。
海外で何度も環境を変えながら成長してきた
トゥウェンテ移籍後も、すぐに結果が出たわけではありません。
その後はベルギーのシント=トロイデン、そしてオーストリアのLASKリンツへと活躍の場を移していきます。
各国のリーグで戦い方やチームの色が違う中、一からポジションを掴み直す日々の連続だったはずです。
LASKリンツで結果を残して評価を高めると、2023年にはフランスのスタッド・ランスへ完全移籍。
リーグ・アンの舞台でも得点力を発揮し、欧州で通用するアタッカーとして名前を広めていきました。
言葉や文化の違いに加えて、常に結果を求められる厳しさもある海外挑戦。
それでも中村選手は環境の変化を恐れず、一歩ずつキャリアを積み上げてきました。
フランスでの苦悩やSNS批判も乗り越えた
フランスでのプレーは、順風満帆とは言えない時期もありました。
結果が出ない時期にはSNSで厳しい意見が寄せられることもあり、本人もその苦しさを率直に語っています。
最近、点をとってないから、ランスのファンに嫌われているっぽい
自分が苦しい時期にいかにやり続けられるかが大事
引用:NHK『スポーツ ヒューマン』より
冗談を交えながらも、アンチコメントやDMが届くことも明かしていた中村選手。
結果が出ない時期でも腐らずプレーを続ける強さが印象的です。
実際、スタッド・ランスでは一時2部降格という苦しい時期も経験しながら、シーズン終盤には1試合4得点のハットトリックを決めるなど主力として奮闘し、W杯メンバーに初選出されました。
こうした経験があるからこそ、精神的にも強くなり、今のプレーにつながっているのでしょう。
【中村敬斗】幼少期のブラジル行きにはどんな経緯が?
中村選手の海外志向やプレースタイルの原点には、8歳のときのブラジル訪問があると言われています。
サッカー王国の空気に触れた経験は、その後の人生に大きな影響を与えたようです。
中村選手がブラジルに興味を持ったきっかけは、5歳のころにテレビで見たロナウジーニョ選手のプレーでした。
自由で創造性あふれるドリブルに惹かれ、本場のサッカーを自分の目で見てみたいと思うようになったといいます。
当時の中村選手は、ロナウジーニョが出演するCM映像のDVDを擦り切れるほど見返していたそう。
そのケースに「なかむらけいと ロナウジーニョになる」と幼い文字で書き込んでいたというエピソードも残っています。
そして8歳のとき、自分から両親にブラジル行きをお願いし、その願いが実現。
日本から長時間かけてブラジルへ渡り、現地でサッカー文化に触れた経験は、幼い中村選手にとって忘れられない出来事になったはずです。
現地では特に予定を決めず、ビーチ沿いや公園でリフティングをしているだけで、自然と知らない人たちとの輪ができたそう。
空港でリフティングをしていたら警備員までいっしょに加わってくれたという、ブラジルらしいエピソードも本人が明かしています。
本人いわく、当時感じていたのは「楽しさ」、そしてブラジルのドリブルの感覚をその肌で味わいたいという思いだったとのこと。
この体験が、いつか海外でプレーしたいという思いを強めるきっかけになりました。
教え込まれたプレーではなく、本能で思うままに動くスタイル。
今の中村選手のドリブルにも通じるその感覚は、幼いころにブラジルで本物のサッカー文化に触れたからこそ培われたものなのかもしれません。
中村敬斗の成功までのエピソードを紹介!
体を大きくすれば、強くなれる。そう信じて、上半身を鍛えた。
— 片山真介|標準化の鬼 (@coach_katayama) June 29, 2026
当たり負けは、たしかに減った。でも、いちばんの武器が消えていた。持ち味の「しなやかさ」が、なくなっていた。
だから、鍛えた体を自ら手放す。強くなるための努力を、自分でやめた。… pic.twitter.com/sID0fyD5b8
ここまでの内容を、年表で振り返ってみましょう。
改めて見ると、挑戦と努力の積み重ねだったことがよくわかります。
| 時期 | エピソード | 現在につながったこと |
|---|---|---|
| 5〜8歳ごろ | ロナウジーニョに憧れ 8歳で父とブラジルを訪れた | 海外への憧れと、 自由な発想のプレースタイルの原点に |
| 三菱養和時代 | 年代別代表でも存在感を示し 高い得点力で注目を集めた | プロ入りへの土台を築いた |
| 2018年 | 高2でガンバ大阪に加入し、プロの世界へ | トップレベルの厳しさを経験した |
| 2019年 | FCトゥウェンテへ期限付き移籍 | 若くして海外挑戦をスタート |
| その後 | ベルギー・シント=トロイデン、 オーストリア・LASKリンツと環境を変えてプレー | 苦しい時期を乗り越える経験に |
| 2023年〜 | スタッド・ランスへ完全移籍し リーグ・アンで得点力を発揮 | 欧州で通用するアタッカーとして認められた |
| 2025-26 シーズン | 2部降格のランスで主力として活躍し シーズン終盤に1試合4得点 | 日本代表のW杯メンバーに初選出 |
| 2026年 | W杯オランダ戦で同点弾 チュニジア戦で最速アシスト | これまでの努力が大舞台で実を結んだ |
順調に見えるキャリアの裏には、何度も壁にぶつかりながら積み重ねてきた努力がありました。
まとめ
中村選手が苦労人と呼ばれる理由には、ガンバ大阪時代の出場機会の少なさや、欧州で環境を変えながら結果を追い続けてきた歩みがあります。
そして、その原点には8歳のときのブラジル訪問とロナウジーニョへの憧れがあったというわけです。
こうした背景を知ってから試合を見ると、中村選手のプレーがいつもよりちょっと深く、熱く感じられるはずです。
